読んだきっかけ
友人からもらった積読本の消化。三島文学第5弾。
ざっくりあらすじ
- 主人公の悦子は病気で夫を亡くしていた未亡人
- 生前の夫はその浮気性で嫉妬に苦しむ。看病中はむしろ気が楽になるほど
- 夫の死後、大阪の舅が所有する果樹園のある屋敷に身を寄せていた
- 弥吉、夫の兄弟夫婦とその家族、使用人たちと暮らしている
- 悦子は弥吉の愛人として過ごしていたが、愛してはいない
- むしろ若々しい屋敷の使用人である三郎に惹かれていた
- ある時、女中の美代が三郎の子供を妊娠する。二人は結婚することに
- 悦子は嫉妬から、美代を辞めさせ三郎と引き離すよう弥吉に頼む
- 嫉妬でメンタルを崩す悦子。それを見て弥吉は東京で現役復帰を決意
- 悦子と弥吉の東京への出発前夜。悦子は三郎へ話があると夜中に呼び出す
- 三郎へ愛の告白をする悦子。ラストは予想外の展開へ
感想
一言でいうと「承認欲求をこじらせた大人たちの地獄絵図」といった小説でした。主人公の悦子はまさに昭和のヤンデレ。
悦子がとにかくヤバい。作者が考える「外面は穏やかだけど計算高くて、したたかで、嫉妬深くて、主観性100%で、腹黒い」女性キャラクターといったところ。
愛を感じたいからこそ、苦しみや罰からの許しを欲する様子は倒錯していて、「なんでそこまで自分を苦しめるん・・・?」と思わず疑問。
特に浮気性の夫を病気で看取る回顧シーンは歪んだ感情すぎて・・・メロドラマよろしく壮絶。「浮気するくらいならいっそ病気で命を落として」と夫の死を願わんばかり。いやー、ドロドロで読むのに体力がいった・・・
とはいいつつも、ラストシーン以外は特にサスペンス的な大事件は無いので、外面的には派手な物語ではない。けれど悦子を始めとしたキャラクターの心情表現が緻密で欲深さが伝わってくる。
そのドロドロした雰囲気はまさに三島由紀夫〜って感じ。なんだか有吉佐和子の『不信のとき』を思い出す。
悦子と三郎
作品の中で特に印象部かかったのが最終章。主人公の悦子が片思いする三郎にようやく告白するシーンなんだけど、どうにも滑稽な感じがして面白かったので書き留めておきます。
まるで男女のディスコミュニケーションの縮図のよう。緊迫したシーンのはずなんだけど、お笑いのすれ違いコントを見ているかのようで、両者のすれ違いが鮮明に。
今以て三郎には悦子が自分を愛していることがわからなかった。
出典:三島由紀夫『愛の渇き』p.216
彼は悦子の持ってまわった告白から、自分にどうやら納得のゆく事実だけを拾い上げようと骨を折った。目前の女は苦しんでいる。これだけは確実だ。彼女は深い原因とては知る由もないが、とにかく三郎のおかげで苦しんでいる。苦しんでいる人は、慰めてやらねばなるまい。ただどうやって慰めてよいものかわからなかった。
さながら「女心を理解しない男」vs「自分と同じ気持ちを共有してると思いこんでる女」というところ。両者の対比は次のようにも表現できそう。
- 感情や愛に重きを置く悦子、ただただ肉体的な欲求に従う三郎
- 頭の中で思考を重ねて想いを深める悦子、刹那的に動物的に生きる三郎
特に鬼気迫る悦子の気持ちを治めさせようとして、三郎が嘘の告白をする瞬間は笑ってしまいました。
「そう。・・・それではあなたは一体誰を愛していたの?」
と悦子がたずねた。(中略)この一見便利そうな合言葉は、彼には依然として、彼が行きあたりばったりに送って来た気楽な生活に余計な意味をつけ、また彼が今後送るべき生活に余計な枠をはめこむ、何かしら余剰の概念としか思えなかった。(中略)
三郎は感情よりも世故の教える判断に頼ろうと考えた。これは子供のころから他人の飯を喰って育った少年には、ありがちな解決である。
そう思ってみれば、悦子の目が、自分の名を言ってくれと物語っていることは、彼にだってすぐ読めた。(中略)「奥様、あなたであります」
あまりにもありありと嘘を告げているこの調子、愛していないと言うよりはもっと露骨に愛していないことを告げしらせているこの調子、こうした無邪気な嘘を直感するためには、必ずしも冷静な頭脳が必要とされていないわけで、一方ならず夢心地に浸っていた悦子も、この一言で気を取り直して立ち上がった。
万事は終ったのである。
出典:三島由紀夫『愛の渇き』p.221 – 222
なんだか「怒った親を納得させるために嘘をつく子供」「怒った彼女をなだめるために嘘をつく彼氏」そんな状況が思い浮かび・・・笑
言ってほしそうな言葉を言ってあげたのに、そりゃないようなぁーとも思えますが、まぁ三郎にしては対して興味のないオバサンが言い寄って来てるぐらいの感じなのかなと。いわれのないトラブルと思っていたかも。
作品の背景
そもそもこの小説が生まれたのは作者の叔母から聞いた農園の話から考えたみたいですね。これだけで物語のヒントが思いつくのがすげーというところですが、その後の作品に落とし込む過程もすげー。
叔母の話を聞いた後、興味を持ったので実際に現地取材するという徹底ぶり。以前に紹介した『潮騒』でも漁村にロケハンしたという。なんというプロ意識の高さ。
しかも当時読んでたフランス古典劇にならってキャラクターを設定。ストーリーはギリシア悲劇を下敷きにしているとのこと。
溢れ出る教養の高さ・・・それなら悦子の過激な嫉妬深さや急展開な結末も納得というところ。誇張されたキャラクター性や、どうしようもないラストは作品背景があるからこそなのかーと。
さすがインテリ作家と評されるだけあるなと思いました。にも関わらず作風は人間の欲望や業をこれでもかと細かくギトギトに描くからギャップが大きいです。
承認欲求が強い人は相手したくない
ここからは本書を読んで僕の個人的に考えてることを書きたいと思います。
僕はあまり承認欲求が強い人とコミュニケーションを取りたくないと思っています。なぜならその欲求を満たしてあげることは際限が無いから。まるで砂漠に水を注ぐようなものなんですよね。すぐに渇いて次を求める。
というように思ってるので、愛されることや承認欲求を追い続ける人を描いた『愛の渇き』というタイトルは言い得て妙!と腑に落ちたましたね。
「褒めてほしいんだろうなー」とか「話し相手になってもらうって承認されてる気分なんだろうなー」と、話していて感じる人がいます。でもそれが目的のコミュニケーションってある意味他者依存な感じがして、相手してるのが不毛だなーと思ってしまうんですよね。
「自分は何を求めていて、何が足りてないと感じていて、どうなれば満たされたことになるのか」これを自覚してないと、その人は永遠に満たされないんだろうなー。
一方で「自分でなんとかしよう!」と自律している人とのコミュニケーションは有意義と感じます。やっぱり自己の土台が盤石でないと、他者へ承認欲求を安易に求めてしまうのかな・・・
今回で三島由紀夫の積読本は消化し終わったので、著者の読書メモシリーズは一旦終了です。他にも有名な作品はあるし、気が向いたら買って読んでみようかな。
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